機関紙「からたちの道」2024年4月号より 

 
水俣の今
 
新たな撤去場所
水俣病の原点ともいえる有機水銀を含む工場排水の出口になった「百間排水口」の撤去が水俣市から突然発表されたのは、昨年の6月だった。「水俣病胎児性小児性患者・家族・支援者の会」をはじめ多くの反対を表明する声が、撤去されず、歴史を伝える場所として維持されることへとつながった。そして今度は水俣病犠牲者慰霊目的で40年前に建設された仏舎利塔の撤去と土地の明け渡しを求める訴訟が、水俣の市議会の議会で賛成多数で可決された。

少し経緯を説明すると、関係者の話しではこの建物は、1971年の市議会で市議が提案し、土地を所有する水俣市と、当時の市長が会長を務める水俣仏舎利塔建設奉賛会との間で土地の売買契約が交わされた記録が残っている。所有権移転登記はされておらず、市有地のままとなっていた。建築主で所有者の男性は、地元新聞社の取材に対し「これまで何も言わなかったのに、なぜいまさら・・・」と。水俣市の訴訟の理由は、仏舎利塔付近で、近年、保安林の無断伐採や違法な造成工事があり、調査を進め、所有者を特定し、撤去を求めたが応じなかった、と。2020年、建物の周囲に樹々が生い茂り、ごみが散乱していたことから、市民有志が清掃や修繕を始めた。ただその時に必要以上に樹々を伐りすぎたことも一因のようである。そのため、修繕にあたった関係者たちは樹の苗を植えたりとできることはやってきたが、近く水俣市より建物撤去の提訴がされる。

水俣病犠牲者の慰霊目的と、かつての水俣市議会で提案された祈りの場所でもある建物が、現在の市議会の決議で今度は撤去される方向へ進んでいる。私はどんな結末になるか分からないが、この裁判という対立構造は新たな対立しか生まないと思う。水俣はこれまで長い時間、人と人の分断や対立が続いてきた。今でもその構造は何かあると浮き彫りになる。だからこそ、対立ではなく異なる意見を持つ者に耳を傾けることから始められないだろうか。同じテーブルにつけないだろうか。それぞれの正義があるかもしれないが、それであれば、まずはそれをお互い聞くところから始められないだろうか。
(参照・熊本日日新聞2024年3月15日付)

 
大型風力風力発電設置計画のその後
水俣市議会の内容が続くが、8名の市議で構成される「環境対策特別委員会」というのがある。かっては「公害環境対策特別委員会」という名称であったが、市議会で多数を占めた保守系の市議が「いつまでも『公害』を掲げていては、街のイメージに関わる」と改称を発案し議決されたという経緯がある。

その会の市議たちに水俣で設置予定の大型風力発電についての意見を伝えに行ってきた。数年にわたり懇談会開催の要望書を出していたが、実施されたのは今回が初めてだった。設置予定地の近くのお茶農家、建設会社、地質学専門家、子育て世代、移住者、水俣の自然や生き物を守りたい中学生など、さまざまな立場の者が短い時間ではあったが、とりあえずは意見を伝えることができた。ただ、懇談会が開かれるまでかなりの時間が要したこと、私たちが意見を述べている時、一度も顔を上げない議員がいたことなど、この人たちは環境に対して本当に特別対策を取ってくれるのだろうか、と疑問が残った。

最後に会の議長からは、学校を休んで意見を述べに行った中学生に「学校は義務教育なので昼からは学校に行って勉強してほしい」と言われ懇談会は閉会した。中学生の彼は「何もずる休みをしたわけではない、勉強に対してもサボっているわけではない。水俣の自然はそれだけ多種多様な多くの貴重な動植物が生息している。自分が何で休んでまでこの場に行ったかがわかりますか?」と口を食いしばった。ただ、その数日後、熊本県は大規模風力発電事業に対し、土砂災害や希少動植物への影響が懸念されるとして、「事業計画全体の抜本的な見直し」を求める知事意見を経済産業相に提出したと、少しだけ嬉しいニュースが届いた。


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機関紙「からたちの道」2021年9月号より

水俣の今

毎年、5月1日の水俣病犠牲者慰霊式で伝えられる「祈りの言葉」。
今年はコロナ禍で慰霊式は中止となりましたが、皆さまにも読んでいただきたく今年の「祈りの言葉」を紹介させてもらいます。



「祈りの言葉」

私の記憶に残るのは、祖父の葬式で墓に行く父・川本輝夫の姿です。祖父は私が3歳の時に、勤めていた精神病院の保護室で、いわゆる劇症型水俣病の狂騒状態で未認定のまま亡くなりました。父はそんな祖父を一人で看取りました。私の手を引いて、父は大声で泣いていました。「じいちゃんの亡くならしたっぞー」と。死の意味も分からない私に、父は泣きながら語り続けました。抜けるような青空と、父の悲しみとがあまりにも対照的でした。

父の行動は、この慟哭から始まりました。

座り込み闘争宣言で「チッソ幹部は全国からの指弾の目を避けるための画策を練り、私たち患者家族が『チッソ王国水俣』で手負い猪になることをしきりに言う。私たちは同じ『手負い猪』になるのなら、最も悲惨・苛烈・崩壊・差別の原点『水俣』から日本を血だるまで、駆けめぐりたい。」と宣言しました。水俣病事件に巻き込まれ、家族を殺され自分自身も傷つきながら、水俣病事件によって破壊された人としての尊厳を取り戻そうとしたのが、父の水俣病事件の闘争でした。自らも患者でありながら一軒一軒訪ねてまわり、認定申請を勧めた父。その人たちの辛さや暮らしの大変さを自分に重ねて、身にしみて感じていた父は、その方たちの代弁者として一生を走り続けました。胎児性の患者さんに寄せる優しい父のまなざしは私のあこがれです。

1年9か月続いた自主交渉の場では、当時の島田社長に「日本全国の同じ父と母が、そんなに違いがあってよかですか。同じ幸せであるべき父と母が、そんなに変わっていいですか。・・」と話しかけました。「人間の価値、命の重さは同じだ。人間は幸せになるために生まれてきた。」という父の哲学に裏付けされた言葉でした。

父はこれまでに4回逮捕され、家宅捜索を4回受けました。すべて無罪でしたが、映像で映る家宅捜索のニュース、数々のいやがらせハガキ、電話。幼い私は傷つきました。私はまだ幼くて、差別に弱かった。差別をはねのけるすべを知りませんでした。辛くて悲しかった。でも、母は揺るがなかった。私たちきょうだいに、父は「何も悪いことはしていない。患者さんのために闘っている。」と教え続けました。私たち家族は、父を支えるため、必死で生きてきました。

「熱意とはことあるごとに、意志を表明することにほかならない。」

これは父が私たちに遺した遺言です。意志を表明し続けた人生だったと思います。「口では言わないけど、おまえの親父さんがすごいことをしてきたとみんな思っている。」「あんななかで、たった一人で闘ってきたお父さんは偉かったと思う。」と言ってくれる友だちがいます。父の言葉や生き方はたくさんの人を勇気づけ、未来を生きる道しるべになるのではないかと思います。そんな父に、私はゆるぎない尊敬を感じています。

今、人間の弱さ、差別性があぶり出されています。また、水俣病事件でも起きていた匿名の中傷・差別が、形を変えてたくさんの人を傷つけています。自分自身も注意深く見極めていかなければ、差別をする立場に立っていることにさえ気づかないかもしれません。こんな時代だからこそ、水俣病事件の教訓を生かし事実を受け止め間違いは正し、乗り越えるために知恵を絞ってきた、おとなたちは話し合いを重ね努力してきたと、胸を張って未来をになう子どもたちに言えるようになりたいと思います。


水俣病事件で闘ってきた父、父に力を与えてくださったみなさま、無念の中で亡くなられたみなさまのご冥福をお祈り申し上げます。私たちは未熟で、まだまだ間違いを繰り返すかもしれません。ご冥福をお祈りするとともに、私たちを正しき道へお導きくださいますようお願いいたします。

(後略)

令和3年5月1日
患者・遺族代表 上野真実子