【生産者インタビュー】



柑橘生産者 吉田浩司さん 
吉田浩司
1977年長崎・諫早生まれ。結婚を機に水俣へ。
パートナーの実家がみかん農家だったことがきっかけで柑橘農家になる。
大学生と中学生の3人の子どもがいる。


みかん山ハチミツ生産者 嫁付き みかん山付き 借金付き

柑橘生産者でもあり、みかん山ハチミツの園主吉田浩司さん。私の大学時代からの親友でもある。
大学は違うのだが、大学間を超えた環境サークルで知り合い、学生時代、九州内の学生を募り、水俣でともにイベントなどを行った仲間だ。何故、彼が今、水俣で柑橘農家になったのかは、私の幼馴染と結婚をし、彼女の家が柑橘農家だったのだ。彼女と付き合い出し、長年柑橘農家をしていた彼女の父親が亡くなり、吉田さんは広大なみかん園を継ぐ流れとなった。もちろん柑橘栽培などしたこともなかった。
ちなみに、彼のパートナーでもあり私の幼馴染は、家業は継がず、助産師となっている。

彼女が仕事を辞め助産師の道を進むと決めた時、一番の応援団で後押しをしたのはもちろん彼だった。助産師を志す為、他県で住み学校に通う妻。柑橘栽培をしながら、時には一番下の娘をおんぶして、3人の子育てをしていた時期もあった。

不知火海を望む広い園には、1000本以上の様々な柑橘が植えられている。メインは、グレープフルーツ、河内晩柑、パール柑。柑橘農家になり今年で17年目。私も彼との付き合いは、学生時代も含めると20年以上にもなるが、今でも何かあると、彼のみかん山に出向き相談する。彼の答えは、常に明快で爽快。そして前向き。それは、柑橘栽培にも出ている。

「あれは若気の至りだった」と話すが、みかん園を継いだ彼が最初にやったことは、8割のみかんの樹を切り、新しい柑橘の苗を植えた。そして複雑に段々畑だった園を、作業しやすいように、平坦な箇所を増やしたことだった。もちろん、パートナーのお父さんが大切に育てて樹々を切られ、義母や周りからは非難ごうごうだった。それでも、少ない種類の柑橘をたくさん作るより、多品種を栽培し、リスク・収入の分散。そして、土づくりに力を入れ、今も無農薬や可能な限り低農薬で栽培をしている。みかん農家になったと同時に、自身の奨学金やみかん園の借金は驚く額だった。とにかく必死の17年間だったと振り返る。

近い将来は養鶏をしたい。この未来計画はパートナと一致しているらしい。「変えていくことにためらいを出し始めたらダメだね」と、自ら変化を作り、変わっていく景色を楽しむ人だ。手放す時には手放し、しがみつかない姿勢も好きだ。読書・音楽・スポーツと多趣味で、今は「土と内臓」という微生物の本を読んでいるとか。中島みゆきも大好きで、きっと今日も、好きな音楽を聴きながら広い園で作業を頑張っていることだろう。 (文・大澤菜穂子)



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